interview 008: support surface

プロフェッショナルな人々の軌跡
研壁宣男氏の場合

support surface

独自の立体裁断による服作りで知られるサポートサーフェスのデザイナー研壁宣男さんは、桑沢デザイン研究所を卒業した後、単身イタリアに渡り、デザイナーとしての仕事を始めていく。膨大な回数の仮縫い作業をこなしていくなかで体得した技術や感覚が、現在のサポートサーフェスのオリジナリティを支えていると言う。「表面=surface」としての衣服と、それを身に着ける「支持体=support」としての身体との関係性を見つめ直し、「生きた皺」を成形する服作り。その方法論に辿り着くまでの軌跡をお聞きした。なお、本記事は、「装談 第4回 研壁宣男」におけるインタビューを再構成したものである。
(収録:2014/5/25 構成:2016/1 *聞き手:篠崎友亮 構成:菊田琢也)

   

デザイナーを志し、イタリアへ

――ファッション・デザイナーを志すようになった経緯についてお聞かせください。
高校2年生の頃から美大に進学したいと思うようになり、デッサンの勉強をし始めました。グラフィック・デザインなどについて美大で学ぶという選択肢が定着し始めた時代で、また、DCブランドブームの頃でもあったので、「ファッション」という選択肢も面白いと思って。それで、最終的に進学したのが、桑沢デザイン研究所でした。桑沢は、洋裁学校ではなく、デザイン全般について教える学校です。

グラフィックというのは2次元の絵の世界で、インダストリアルや店舗設計というのは固体の3次元のデザインです。しかし、洋服は固体であるようで、人が着ないと成り立たない。また、人の動きによって形が変化します。それで、僕のなかには液体をデザインしているような感覚があります。洋服には形があるようでなくて、なびかせるとなびいてしまう。デザインをする上で、そうした部分に魅力を感じていました。

――桑沢デザイン研究所では、デザイン全般について学ばれたのですか?
ドレスデザイン科に入りました。洋服専門のカリキュラムなのですが、クロッキーやデッサンの授業にも重点が置かれていた記憶があります。現在の桑沢でファッションを学んでいる学生は20名程度ですが、当時は120人もいました。DCブランドブームの勢いを物語っている数字です。もっと大きな規模の学校ですと、とてつもない人数だったのではないでしょうか。ファッション業界が輝いていた時代でしたね。

――当時、憧れていたブランドはありますか?
イッセイミヤケ、コム デ ギャルソン、ワイズ、ニコル、etc…。学校帰りに、丸井に寄ってはデザイナーズ・ブランドの服を買いました。その頃はまだ、学生がカードを持つことが難しかった時代ですが、唯一持つことができたのが丸井のカードでして、洋服を分割で買ったりしていました。2、3万円する服を12回払いで支払ったりしていたのですが、同時に5、6個買ってしまい、月々の支払いが大変になってしまったときもありました。その頃は、安くて程々に良いという服がありませんでしたから。当時のデザイナーズ・ブランド商品はテイスト的には「アヴァンギャルド」という言葉が当てはまると思うのですが、そういうものが若い僕らには新鮮に見えた時代でした。

――桑沢時代に、ファッション・デザイナーを目指すきっかけになった賞を取られたそうですが。
1年目の夏に、ダメもとで出したものがオンワードファッション大賞に入選しました。白のウールのコートドレスだったのですが、縫製の技術もパターンの技術もまだまだ未熟な頃で、でも入選したからには作らなくてはいけない。何とかして作り上げましたが、挫折を味わいました。賞を取る作品にはやはりオーラがあって、自分の作品にはそれがない。上には上がいる。全国レベルはやはりすごいと思いました。

2年生の頃に、繊研新聞主催の賞で大賞を頂きました。IWS国際羊毛事務局がバックについていたコンテストだったのですが、「春物をウールで作る」というのが課題で、ウールジャージーでさらっと作ってみたんです。それが逆に新鮮に見えたようですね。技術的にはまだまだだったと思います。

3年生の頃に、装苑賞で二位に入賞しました。入賞はしたのですが、微妙な気持ちになりました。そのときのテーマが「あなたが着せたい着たい服」だったのですが、オブジェみたいな服を作ってしまって、はたしてこれを誰が着たいと思うんだろうかと。それで、そんな微妙な気持ちのなかで出会ったのが、ロメオ・ジリというデザイナーでした。日本のDCブランドが作る服とはまた違う、こんな素敵な服があるのかと思い、衝撃を受けました。

――ロメオ・ジリはどのようなデザイナーですか?
その頃はファッションというとパリが主流で、アズディン・アライアやクロード・モンタナ、ジャン=ポール・ゴルチエといった仰々しい服が多かった。そうした時期にロメオ・ジリが発表していた服はリラックス感のあるリアルクローズで、それでいてすごくモダン。ぎりぎりのところでシンプルにデザインされたものでした。

80年代の終わり頃、ロメオ・ジリは、僕が後に働くことになるディエチ コルソ コモ(10 Corso Como)の2階でショーを行っていたのですが、ステージを設けないフロアショーで、モデルがすごくリラックスしていて、この雰囲気は当時のパリ・コレクションにはなかったですね。感度の良い人たちの間で話題になっていました。彗星のように世界を圧巻したあの新鮮さは、情報過多になっている現在、なかなかないのではと思います。1988、89年のロメオ・ジリの勢いはすごかったですね。

この人の下で働いてみたいと思いました。それで、イタリアまでの片道航空券を買って、当たって砕けろという気持ちで訪ねました。ロメオ・ジリに会いに行ったところ、ディエチ コルソ コモのオーナーであるカルラ・ソッツアーニさんが面接をしてくれたのですが、イタリア語を話せませんと伝えたところ、勉強してから来なさいということになりました。それで、2、3ヶ月ほど語学学校に通ってイタリア語を勉強しました。次第に、お金も底をついてきて、どうにかしなければという感じで、もう一度会いに行きました。「前に面接をしてくれたのを覚えていますか?」と聞くと「覚えてるわよ。忘れるわけないじゃない」とイタリア人特有の巧い言い回しで受け入れてくれましたね。

・support surface 2015-16AWコレクション

   

ロメオ・ジリとカルラ・ソッツァーニの下での経験

――それで、ロメオ・ジリの下で働き始めるわけですね。
初日から忙しかったです。インドの手刺繍を多く使ったシーズンを準備している時期で、ジリが集めた写真を参考に、柄をパターンに写していく仕事をしました。

――そうした仕事に取り組むなかで、デザイナーとしての基礎を身につけていったのですか?
いいえ。相手の言っているイタリア語が何とかわかる程度の時期だったので、仕事とはいっても、デザインの雑用をしていたという感じです。実際には、その後に働くことになるディエチ コルソ コモでの経験が大きかったと思います。

――ロメオ・ジリではアレキサンダー・マックイーンと一緒に働いていたと聞きました。
1990年頃、マックイーンはイギリスのコージタツノで働いていたのですが、僕と同じように憧れを抱いてロンドンからジリの下にやって来ていました。年齢が同じくらいだったのと、イタリア語が話せないもの同士だったので、すぐに仲良くなりました。彼はリー・マックイーンと名乗っていました。僕は業界に疎いので、あのアレキサンダー・マックイーンが彼だとはしばらく気付きませんでした(笑)

・ロメオ・ジリのショールームで仕事をしているアレキサンダー・マックイーンと研壁宣男

   
――(写真を見て)さすがイタリアというか、オフィスの家具もおしゃれですね。
これはロメオ・ジリと、それからカルラ・ソッツアーニのセンスのですね。彼女は編集者出身なので、ディエチ コルソ コモもブティックという感じではなく、雑誌の編集に近いお店です。本があって、音楽があって、家具があって、そのなかに服もあるというスタイルです。彼女一人の選別眼で生活全般のスタイリングを行っていました。トレンドがどうこういうのではなく、彼女が好きかどうかというのが大事で、ディエチ コルソ コモは本当の意味でのセレクトショップではないかと思います。元々、ジリとカルラは共同経営者だったのですが、その後、喧嘩別れをしてしまい、結果的に会社が分裂し、ジリが出て行くということになり、僕はコルソ コモに残りました。

カルラ・ソッツアーニの下で、「NNstudio(no name studio)」というブランドの仕事を始めました。日本の無印良品のように、デザイナーの名前を冠さずに品の良い服を提供するというコンセプトのブランドです。黒、紺を基調としたプレーンなデザインを中心に構成されていました。ブランドというのは、生産工場や素材のバックアップがないと始められないわけですが、彼女の妹であるフランカ・ソッツァーニ(現『イタリア版ヴォーグ』編集長)の友人に、アルベルト・ビアーニというデザイナーがいて、彼は一代で「staff international」という工場を築き上げた人物です。当時は、ヴィヴィアン・ウェストウッドやバレンティノ、コスチュームナショナル、メゾン・マルタン・マルジェラといった名だたるブランドの生産を担当していました。それで、ビアーニの協力もあり、コレクションを作ることができたわけです。彼らは恩人ですね。そういう経緯もあり、イタリア最後の5、6年間はビアーニの元で仕事をさせてもらうことにもなりました。

――NNstudioではどのような仕事をされていたのですか?
スタッフの人数が少なかったので、メンズ、レディース共に、素材選びから一人でやっていました。その時に、仮縫いで作り上げるということの本当の意味を知りました。デザインの重要性は絵よりも仮縫いにあるんです。スケッチやデザイン画はそれほど重要ではなくて、例えば、定番ジャケットであれば、それを如何に魅力的なジャケットに仕上げるのかという点で、微妙なフィット感が重要となってくる。つまり、線で描かれるデザインの次元ではないわけです。

――その頃から立体裁断を手掛け始めるのですか?
いいえ。形に関してはデザイン画を描き、モデリストが作った試作を仮縫いしていました。 

――イタリアの工場にはパターンを引けるスタッフがいるのですか?
イタリアの工場は、生産をただ請け負うだけではなく、パターン、生地の手配、裁断、縫製、倉庫業務、企画以外のすべてを受け持っていたところが多かったです。システムが日本とは全く違う印象です。

――パターンや縫製の知識を持っていないと、工場のスタッフたちとコミュニケーションがとれませんよね。
いいえ。これがまた日本と違うところでして、まず、イタリアでパターンがまともにわかるデザイナーに会ったことがありません。オーナーデザイナーが多かったからかもしれませんね。そもそも、デザイン画というのは良い服を作ろうとする場合の一つの手段であって、目的ではないわけです。彼らの発想の起点は古着であったり、パタンナーとの会話のみであったり。従って、技術的な知識よりも、作りたいものが何であるのかという意志と哲学、そして感覚を第3者に伝える伝達技術が重要です。

――イタリアでの経験はサポートサーフェスの仕事にも活かされていますか?
全ての経験は現在に活かされていると思います。

・support surface 2015-16AWコレクション

   

サポートサーフェスの服作り

――96年に独立し、サポートサーフェスを始められます。
その頃、既製服の技術に限界を感じていました。それで、少量生産で良い服を作っていきたいという思いが強くなって、ディエチ コルソ コモ時代に知り合ったサルトリア(オーダーメイドの仕立て屋)のファミリーと一緒にブランドを始めました。

――拠点を日本に移されたのはどのような理由から?
イタリアでの生活も長くなって、そこで幸せそうなイタリア人たちの表情を見ていると、家族がいて、自分が生まれた場所で生活するというのは素敵なことだと思いました。また、15年もイタリアにいたので、少々、イタリアでの生活に飽きてきたというのもあったかと思います。

――ここからは、サポートサーフェスの服作りについてお聞きしたいのですが、服を作る上でテーマ等は設定しますか?
毎シーズン、テーマはとくに掲げていません。前シーズンやったことやこれまでの流れを踏まえると、今するべきことが自然と浮かび上がってきます。確かに、シーズン毎に服の雰囲気というのはそれぞれあります。でも、なかなか言葉では言い表せないものです。僕は絵では表現できないような、絵を通り超えたところで、空気感をドレーピングしていくような感じがあって、無のものから徐々に服の形を作っていきます。ブランドを始めるとき、アパレルの通常の企画制作のやり方では、真のオリジナリティを作り出すことは難しいと考えていました。

――サポートサーフェスのオリジナリティはどのようなものだと捉えていますか?
3次元である洋服を、3次元で作り出していくことで、自分のオリジナリティが発揮出来るのではないかと考えました。イタリアでは膨大な数の仮縫いこなしていたので、服の量感を、手が覚え、目が覚えています。学校で立体裁断の勉強を集中的にやったわけでもありませんが、案外スムーズにデザイン画からは作り出せない形を次々と生み出すことが出来ました。

洋服では、仮縫いで変な皺が出ると、体型にあっていない皺、直さなければいけない皺と捉えられがちです。他方、和服の皺というのは、その皺自体が生きている皺、体型にあっていない皺ではなくて、美しい皺になります。完成度の高いテーラードに、和服に見られるような生きた皺というかドレープの色気をミックスしていくことで、ひょっとしたら新しいものができるのではないか。洋服の立体感と日本的なドレープ感を融合させるというのは、自分にしかできない仕事なのではないかと考えました。

・support surface 2016SSコレクション
   

――「サポートサーフェス」というブランド名にはどのような思いが込められているのですか?
人体 (=support: 支持体) と服 (=surface: 表面)との関係を、過去の概念にこだわらず再構築していくこと。それから、服は表面でもあるが、同時に着る人のこころをサポートする。そうした意味合いが込められています。

――イメージ通りの服が仕上がるまでには様々な経験と時間を要すると思いますが、これまで服作りとどのように向かい合ってきましたか?
「もの」としての服とだけ向かい合っていた頃は、悩んでなかなか形になりませんでした。着る人との調和を考えるようになったとき、作業が徐々にスムーズになっていったと思います。技術面では完璧とはまだ言えませんし、アイデアも思い浮かばない、形にならないときもあります。そうしたときは、自分一人で悶々としていても仕方ないので、アシスタントや周囲の人たちに頼るようにしています。チームの力を一つに結集することが大切ですね。

一点一点、長いスパンで服を仕上げていきます。形に関していえば、1週間後に形が出来上がるというのはまずないです。2、3ヶ月のスパンを置いて、見直して、見直して、見直します。同じものを見ていても、自分の心のバランや天候の状況などでも見え方が変わってきますので。比較的短いスパンで服を作ってしまうと、そこに情が入ってしまって、作っているものに「努力賞」を与えてしまいがちなんです。デザインを多少寝かさないと、冷静な判断が出来ない場合が多いと思います。

――どのあたりの年齢層をターゲットにされていますか?
ターゲットを年齢層で考えたことはありません。作る側としてはやはり、こだわりをもって作っていきたいと思っています。素材しかり、付属品しかり、パターンしかり。当然そうなってくると、コストもかかってくる。コストがかかるということは、その分上代にも影響するわけで。では、その価格のものを誰が購入するのかということです。また、年配の女性たちは年齢をターゲットに企画された服なんて着たくないのでは? 若々しくありたいと思うのではないでしょうか。それと同時に、10代の女性たちにいつか着てみたいという憧れをもってもらえるような、オーラのある服を作れなければやっていけないと思っています。

――これまでのキャリアにおいて、特に重要だったと思う経験は?
一つ一つ段階を踏んで経験してきましたので、どれが重要かというのは、順番をつけられないですね。全てが重要だったと思います。補足として言えば、高校生のときにデッサンの訓練をしましたが、デッサン力がなかったら、今の自分はないかもしれません。基本的に僕の技術を支えているのは、デッサンを訓練できていたことが、大きいと思います。プロの間ではデッサンというのはそもそも出来て当たり前だろうということで、話題にもなりません。プロとアマとの境界線があまりない時代になってきましたが、プロとして制作活動を続けていく場合、デッサンの狂いを察知し、直せなければいけない。基礎は重要だと思います。

・support surface 2016SSコレクション

   

研壁宣男(すりかべ・のりお):
株式会社サポートサーフェス代表兼デザイナー。
1988年、桑沢デザイン研究所を卒業し、翌年イタリアへ渡る。1990年から1992年まで、ロメオ・ジリの下でアシスタントデザイナーとして働く。1992年からはミラノのセレクトショップであるディエチ コルソ コモに勤務し、96年に独立。フリーのデザイナーとして日本国内での活動を開始、2007年に株式会社サポートサーフェスを設立。東京コレクションには、2006年から参加している。
http://www.supportsurface.jp/