Think of Fashion in Kanazawa: トーク04

アンリアレイジのてつがく ―にていることとはちがうこと

工藤雅人(社会学、メディア史、ファッション研究)

   

1. 「にていることとはちがうこと」の二つの含意

 工藤と申します。「アンリアレイジのてつがく」という偉そうなタイトルになっていますが、総論ではなく、お三方(*トーク01〜03を参照)が話された内容にひきつけながら、話していく予定でおります。アンリアレイジの特徴として挙げられるのではないかと私が思っているのが、副題にもなっていますが、「似ている」ということです。より精確には、「似ていること」を基軸としながら「違うということ」を示すという姿勢です。何に似ているかというと、他のブランドの洋服や彼らが過去に作った洋服と似ているということなのですが、これについては、後で詳述します (*註1.)。

 まず確認しておきたいのは、当たり前のことなのですが、概念上、「似ていること」は「違うこと」を含んでいる、ということです。例えば、双子の顔は似ています。これは、云うまでもありません。とはいえ、その二人の顔は全く同じではないですし、見慣れてくれば見分けることができるはずです。要するに、二人の顔はどこかが違うわけです。
 この日常的な言葉づかいからもわかるように、「似ている」という言葉は「共通性があるなかで何らかの差異もあること」を意味しているということができます。副題に挙げた「にていることとはちがうこと」の一つ目の含意は、「似ていること」とは「違うこと」なのだ、というものです。

 「にていることとはちがうこと」にはもう一つの意味を込めています。それは、アンリアレイジが単純に何かに似ているものを作っているのではない、ということです。何かと似たものを作っているとしても、それは似せることが目的ではなく、むしろ、「ただ単に何かに似ている(と評価されるような)洋服」とは異なる洋服を作ろうとしている、ということです。

*註1. 当日はアンリアレイジ以外のブランドの画像や映像を示しながら話を進めたが、本記事掲載にあたり、すべてを削っている。ブランド名や発表されたシーズンは明記しているので、興味を持たれた方はご自身で調べていただきたい。

   

2. アンリアレイジの洋服と似ている洋服

 「にていることとはちがうこと」という副題には、このような二つの意味を込めているのですが、なぜこんな話をしなければならないかというと、アンリアレイジがつくる服は「似ている」とよく云われるからです。いくつか例を挙げたいと思います。

 これ(*画像1, 2)は「LOW」(2011-12AW)です。これ(*画像1)は花柄です。こちら(*画像2)は迷彩柄ですね。そして、この迷彩柄に似ていると云われたのが、ビューティービースト(beauty:beast)のデジタル迷彩(柄)です。90年代半ばのもので、似ていると云われれば、そうですね、としか云えませんが、「LOW」は解像度をテーマにしたものですので、そりゃ似るだろう、と思います。
 もう一つ例を挙げましょう。こちら(*画像3)は「     」(空気の形、2011SS)ですが、似ていると云われたのが、コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)の「こぶドレス」です。これについては、アンリアレイジのデザイナーである森永邦彦さん自身も「「こぶドレス」が美しいとは思えなかったが、どのようにすれば美しくなるかは考えていた」とおっしゃっています。
 一番新しいコレクションの「SIZE」(2014SS)では縮む服が発表されましたが、これに近いと云われたのが、フセイン・チャラヤンのコレクション(2007SS)です。お分かりだと思いますが、「動く」というところが似ているわけです。まあ、見たままというか、そのままなのですが(苦笑)。

・左:画像1 「LOW」(2011-12AW) ・中央:画像2 「LOW」(2011-12AW) ・右:画像3 「     」(2011SS)
©2015 ANREALAGE

   

3. 「似ていること」はネガティブか?

 いくつか見ていただきましたが、このように似ていると云われるときの「似ている」は、必ずしもポジティブな意味で使われているとは云えません。もちろん、先に挙げた例のように、事実確認のような意味合いで使っている場合や興味深い特徴を示すために使われていたものもあります。しかし、多くの場合は、パクリだというニュアンスを込めて、もしくは、新しくはないということを暗に示すための婉曲表現として、「似ている」という言葉を選んで使っている、と云ってよいと思います。
 アンリアレイジに限らず、婉曲表現や皮肉として「似ている」という言葉が使われているということは一応理解できるのですが、一方でなぜ、ネガティブな評価を下されるのか、似ていることがなぜ良くないこととみなしうるのかはよく分かりません。パクリがダメ、という主張であればわかりますが、似ていることはパクっていることをただちに意味するわけではないので、似ていることそれ自体は否定的な評価の根拠にはなりえません。

 私はメディア史や社会学を専攻する研究者ですので、私たちの領域の事例を補助線として紹介したと思います。かなり乱暴な云い方ですが、アカデミックな論文では似ていることは当たり前です。私たちが書く論文は、先行研究を踏まえてそれらを批判的に乗り越えていくということ、先人の考えてきたことをもとにしてより説得的な知見を提出するということを目指して書かれます。すでになされた研究を土台とするわけですので、共通点があるのは当たり前なのです。このような考え方は洋服づくりにも当てはめることができるのではないかと思っています。

   

4. 「似ていること」を否定しない

 アンリアレイジに話を戻します。ここ最近は、毎シーズンではありませんが、彼ら自身が他のブランドの過去の洋服に言及しています。
 例えば、これ(*画像4)は「BONE」(2013SS)ですが、ショーの後でなされたインタビューで、森永さんがコム デ ギャルソンの「ぼろルック」に言及しながら、「BONE」の穴の開いた服について説明をしていました。もちろん、似せたとも、まねたとも仰ってはいませんでしたが、「現代において「ぼろルック」を作るとすれば、どのようなものになるのか、ということを考えていた」という趣旨のことを仰っていました。
 大した発言ではないと思われるかもしれませんが、私は二つの理由から注目に値すると思っています。一つ目は、ショーが終わった直後の囲み取材というもっとも注目される場においての発言である、という点です。二つ目は、「BONE」と「ぼろルック」は一見、それほど似ていないからです。似ているようには見えないにもかかわらず、あえて言及したのであれば、何らかの意図があるのだろうと。

 「BONE」以外でも、きょう杉原一平さんが着ていらっしゃる「COLOR」(2013-14AW)の時にはマルタン・マルジェラの「白」に言及していました(*画像5)。
 どこかと似ているとよく云われていること、頻繁に他のブランドと比較されるということを、おそらく彼らも知っていると思います。似ていると云われるのを知っているのになぜ、他のブランドに言及したのか。今日は、この疑問を解く作業をしていきたいと思います。

 本論に入る前に、生産的ではない誤解を防ぐために念のため申し上げますが、これからする話は皮肉ではありません。似ていると云うと、一般的にはネガティブな評価を与えているかのように聞こえるかもしれませんが、そのような意図は込めていません。
 アンリアレイジが他のブランドと似た服を作っている、ということを行論上の前提として、その上で、なぜあえて似た服を作るのか、その目的や意味、意義を考えていきたいと思います。

・左:画像4 「BONE」(2013SS) ・右:画像5 「COLOR」(2013-14AW)  ©2015 ANREALAGE

   

5. 「似ていること」の理由 ―差異のきっかけとしての類似

 コム デ ギャルソンの最新のコレクション(2014SS)時に、川久保さんが「新しい服を作れなかったから、服ではない服を作った」と述べています。川久保さんのこの発言を基準というか、ベンチマークとするならば、川久保さんでさえこのような発言をするような状況、新しい服を作るのが困難な状況に現在ある、ということができると思います。
 では、このような現状を踏まえ何ができるか、何をすべきかというと、「人とは違うことをしよう」という態度をとりあえずやめるという方向性があります。その代わりに、まずは今までなされてきた服づくりの限界を画定させる。そして、画定させた上で、出来るのであれば服づくりの可能性を拡張させる。かなりざっくりとですが、アンリアレイジが行っている作業はこのようなことではないか、服づくりの技術の限界や服が服足りうるかたちの限界を探ってきたのではないか、と思っています。

 「WIDESHORTSLIMLONG」(2010-11AW)は分かりやすい例だと思いますが、このコレクションでは、洋服づくりの箍(たが)となっていた人間の身体をはずす試みがなされています。洋服は人間が着るものですので、人間の身体を基準として作られているのは、確認する必要もないと思いますが、洋服づくりという側面から見れば、人間の身体こそが限界を与えるものであります。服である以上、人が着られなければなりませんが、だからと云って、律儀に人の身体を基準にする必要はないのではないか、人の身体とは異なるかたちを基準にしても人間が着られる服を作ることはできるのではないか。そのような問いを携えて、基準を縮めたり伸ばしたりしながら、服づくりの可能性を拡張する作業を行ったのが、このコレクションだと思います。
 かたちにおける服づくりの限界を画定し可能性を伸ばそうとしたと云えるこの作業は、「○△□」(2009SS)でも「     」(空気の形、2011SS)でもなされたわけですが、少なくとも「○△□」以降は服づくりの限界画定と可能性拡張を意図したコレクションが発表されてきたと云えるのではないでしょうか。

 「SIZE」(2014SS)はチャラヤンに近いと云われていますが、コレクションを見たときに私はヴェットモンの2004SSと似ているように感じました。アンリアレイジはダイヤルを回して調整していましたが、ヴェットモンは紐で絞ってドレープをつくるものです。かなり有名なものだと思いますが、ヴェットモンはその後ブランドをたたんでいるということもあってか、あまり言及はされませんでした。私は似ていると感じましたが、同時に、全く違うものだな、とも思いました。何が違うかというと、ヴェットモンの服にはおそらくサイズを問い直すという意図がありません。紐はドレープやシルエットを作り出すために用いられているものであって、造形上の関心に基づいてつけられています。
 何が云いたいかというと、「似ている」ということはやはり、「違う」のだということです。この例で云えば、考え方や目的が違うのです。この違いは、表面だけを見ていてもわからないことです。そして、この「違い」こそが重要なのです。

 より具体的な話をしたいと思います。
 今回の「SIZE」は、「WIDESHORTSLIMLONG」を延長させたものではないかと私は感じました。先ほど、アンリアレイジが他のブランドに言及していると申し上げましたが、参照の対象にはほかのブランドの洋服だけではなく彼ら自身が過去につくった洋服も含まれています。
 「WIDESHORTSLIMLONG」では、服づくりの基準・前提となっていた人間の身体をどう相対化するかという問いへの解答としてWIDESHORTとSLIMLONGが作られました。問いに対する解答は明確ですので、相対化や可能性の拡張という目的は達成されていると思います。しかし、ここからは私の個人的な印象がかなり含まれますが、造形的にはSLIMLONGと比べてWIDESHORTは完成度が劣っていたように感じていました。この点をアンリアレイジの皆さんがどのように感じていたのかは分かりませんが、今回の「SIZE」はSLIMLONGとWIDESHORTを足したものをつくろうとした、と考えることができるのではないか、と思います。

 「WIDESHORTSLIMLONG」では人間の身体という基準を相対化するために、二つの身体(WIDESHORT/SLIMLONG)が設定されましたが、「SIZE」ではそのような具体的な基準を設定せずに、誰でも着られて、WIDESHORTとSLIMLONGとの間に位置づけられるようなものをつくる、という目標を定めて服づくりがなされたように思います。
 人間の身体を基準にしない、という点では共通性がありますが、具体的で固定的な形を設定せずに洋服に可塑性を持たせたという点では、差異というか展開というか発展が見られます。自分たちがやってきたことを振り返りながら、改めて違うやり方で同じ問題に取り組んだと云いかえることもできるでしょう。

・「WIDESHORTSLIMLONG」(2010-11AW)  ©2015 ANREALAGE

   

6. 「似ていること」の作用 ―新しくないものの新しさ

 今日の話は、「なぜアンリアレイジは何かと似ていると容易に云われかねない服を作るのか」を建設的に考えるというものですが、彼らが過去に作った服と似た服をなぜつくるのか、という問いに対しては、この例からもわかる通り、問題意識が同じであるからと答えることができると思います。違いがあるのは、方法というか解き方が異なるからです。
 そして、それは、彼ら自身が過去に作った洋服だけではなく、他のブランドが過去に作った服に対しても、向けられているように思います。その服を作るにあたって携えていたであろう問題意識をアンリアレイジなりに考えたうえで、残された課題を自分たちならどのように解くかを服づくりにおいて実践してみる。服づくりの限界を画定し、可能性を拡張するという目的のもとでは、彼ら自身の過去の服づくりも他のブランドの服づくりも参照されるべき事例としては等価だと云えます。このような豊富な事例を参照しながら、思考と試行を何度も何度も繰り返すその姿勢こそが、アンリアレイジの哲学かなと私は思っています。

 平林さんのお話(*トーク01参照)でも出ていましたが、一見出来そうにもないことであっても一度は云ってみるとかやってみるという姿勢を僕も感じます。一度アイディアとして出すからこそ、結果的に実現できなくとも、出来なかったこと、課題としてストックされて、また後で取り組むことはできるわけです。
 この点は他のブランドの服づくりに対する態度でも同様で、やろうとはしたけれども出来なかったことがあるのではないか、仮にあったとして、どうすれば出来るのか。このようなことを思考実験のように行ったうえで、自分たちの服づくりの中に組み込んでいく、そういう過程が彼らの服づくりには含まれているように思います。

 自分の意見を託しているようにも思うのですが(苦笑)、私がアンリアレイジの服づくりから感じるものは「似ていて何が悪い」という強い意思です。開き直りの云い換えに聞こえるかもしれませんが、先ほどお話ししたように、ただ似ているだけではありませんので、その下には「違いにも目を向けよ」という主張も隠れているわけです。
 さらに云えば、先ほど川久保さんの話を出しましたが、「新しいものが必要なのか」という問いかけや「新しくなくても良いのではないか」という提案を行っているようにも思います。こういう不用意なというか、逆説的な云い方をすると、必ず「ご批判」が飛んでくるので、以下の点は強調したいのですが、アンリアレイジが新しくないと云っているわけではありません。むしろ、新しくない、つまり、似ているという意味で新しくない服を作っているにもかかわらず、結果的に新しい服を作っているという点こそ彼らの特徴だと思います。

 アンリアレイジからずれますが、化繊を例に考えてみましょう。よく知られた化繊の一つであるレーヨンは、もともと絹をまねたものでした。パクリというと不適切かもしれませんが、人絹と呼ばれていたことからもわかる通り、絹に似せて作られたのがレーヨンでした。天然の絹と比べて、価値というか、質では劣るものとされていましたし、一般的には現在でもそういう認識があるのではないかと思います。しかしながら、天然の絹にはない造形の自由度をレーヨンはもっています。絹に似ているという点では、新しくありませんが、絹にはない特性を具えているという点ではまったく新しい素材だということができます 。
 既存のものへの類似や接近を経由しながら、固有性をもった新しいものをつくろうとしているという点でアンリアレイジがやろうとしていることは、レーヨンの開発に似ているのではないかと私は思っています(*註2.)。

*註2. レーヨンに関しては、O’Connor, Kaori, 2004, “The Other Half: The Material Culture of New Fibers”, Kuchler, Susanne and Miller, Daniel eds., Clothing As Material Culture, Oxford and New York: Berg, 41-59.を参照。新技術や新素材の「発明」や「登場」は、現在から見ると革新的な出来事のように見えることがあります。このような見方を「技術決定論」と云いますが、「発明」や「登場」がそのまま直接的に「普及」に至るとは限りません。新奇なものであればこそ、敬遠され、その可能性や利便性が当初は評価されないという状況に陥りがちです。この「発明」から「普及」へのプロセスには、可能性や利便性を利用者に示すことで、偏見を解き、価値を認めてもらい、ニーズを掘り起こす地道な努力が隠れています。オコナーは、レーヨンという化繊が普及していくプロセスで、デュポン社がどのような問題に直面し、どのようにその問題を解決したのかを平易に説明しています。ファッションの歴史記述でも「技術決定論」の罠にかかっているものは少なくないので、それを避ける練習としても読むことができるのではないかと思います。

   

7. 「似ていること」を指摘する無意味さと意義

 アンリアレイジをレーヨンに例えると、お怒りになる方がいらっしゃるかもしれません。そもそも、アンリアレイジの服が他のブランドと似ているという点を、前提として話を進めてきたことに対して、不快感を持たれる方もいらっしゃると思います。
 その点は十分に理解しているのですが、それでもなぜ「似ている」にこだわったかというと、「似ている」かどうかは評価の基準にはなりえないと私は思っているからです。基準になりえないというか、「似ている」という指摘をしただけでは、何も云っていないに等しいのです。アンリアレイジに限らず、どんなブランドでも他との類似を見出すのは、比較的容易なことです。パクリである、という意味であっても、新しくないという意味であっても、このようにすぐに見つけられるようなことを、しかも否定的に強調しても、全く生産的ではないと私は思っています。

 元々私は、「似ている」という指摘をすることは単なる知的怠慢だとさえ思っていました。しかし、アンリアレイジの服づくりは「似ている」ことをあえて前に出しているようにも感じられたので、知的怠慢だと不用意に切り捨てるのではなく、「似ている」という点に寄り添って何か考えられないだろうか、と試行錯誤したものが今日お話ししたものです。

 最後に、アンリアレイジが「レーヨン」をつくり得ているか、をちょっとだけ考えたいのですが、まだではないかなぁと私は思っています。例えば、「LOW」(2011-12AW)や「BONE」(2013SS)など何度かレーザーカットを利用していますが、まだ、既存の洋服をこれまでとは異なる技術でつくってみるという試作の段階にあるように感じます。カットした部分の始末が不要という特徴を「BONE」では積極的に活かそうとしたという説明をうかがっていると確かにと感じられる部分はかなりあったのですが、この裁断技術の真価が発揮されているという印象を私は持てませんでした。

 批判ぽいことを最後に口走ってしまいましたが、この程度のことは、アンリアレイジの皆さんも感じられているのではなないでしょうか。多分、これ以上の反省や課題をストックされているでしょうし、想像できないような試行錯誤もなさっているはずですから、そう遠くないうちに見たことのない服を見せてくれるのではないかなと、思っています。
 予定より長くなってしまいましたが、これで私の話を終わります。ありがとうございました。

   

工藤 雅人(くどう・まさと):
東京大学大学院学際情報学府博士課程、文化ファッション研究機構共同研究員、武蔵大学社会学部・大妻女子大学文学部非常勤講師。
1981年米沢市生まれ。専門は社会学、メディア史、ファッション研究。論文 に「ファッションが「かぶらないようにする」ことの意味―2010年練馬区在住19~22歳男女における服を着ることと他者意識の関係性―」(『ファッションビジネス学会論文誌』 19号、2014)、「回帰と更新の果てにANREALAGEが見た景色」(『A REAL UN REAL AGE』パルコ出版、2012)、「COMME des GARÇONS以前のコム デ ギャルソン――1970年代が可能にしたCOMME des GARÇONS」(西谷真理子編『相対性コム デ ギャルソン論』、2012)、「洋服から身体を引き剥がす――ANREALAGEの示す『かたち』」(西谷真理子編『ファッションは語りはじめた』 フィルムアート社、2011)、「『服飾雑誌』の歴史的成立――1950~60年代の『装苑』の誌面構成と読者の変容に焦点を当てて」(『マス・コミュニ ケーション研究』76号、2010)など。