Think of fashion® 062

「ドレス・コード?」展を読み解く
ー「ステレオタイプ」を中心にー

講師:小形道正(京都服飾文化研究財団アシスタント・キュレーター)

FashionStudies®は、「ドレス・コード?―着る人たちのゲーム」展が、京都国立近代美術館での開催期間中の2019年10月5日に、人々の装いについての文化や社会現象を学ぶ 講座シリーズの「Think of Fashion™」で、この展覧会を読み解く講義をこの展覧会の企画者である京都服飾文化研究財団の小形 道正さんを講師に迎え開催しました。その時の講義のreviewを公開します。

   

1.はじめに――本展のコンセプト

本日はよろしくお願いします。みなさんのなかで、「ドレス・コード?」展をすでに観たという方はいらっしゃいますか。ほとんどの方にご覧いただいているみたいで、ありがとうございます。

本展は8月9日から京都国立近代美術館にてはじまった展覧会ですが、開催してしばらく経ちTwitterなどのSNSを検索してみると、「面白かった」という感想がある一方、「結局この展覧会は何が言いたいのか」といったコメントもありました。本展は疑問文による13のコードから構成されており、鑑賞者の方に「ファッションとは何か」ということについて考えてもらえるように、問題提起をするかたちになっています。したがって、今回「コンセプトとしてはこのような意図があった」ということを、企画者としてお話しできれば大変嬉しく、みなさんの理解や展覧会を楽しむヒントに役立てるのではないかと思います。

展覧会の説明をする前に、少しばかり私自身の自己紹介と、所属する京都服飾文化研究財団(以下、KCI)について説明したいと思います。KCIは、単純に申しますと、大学と美術館の中間に位置する研究機関です。たとえば、大学のように科学研究費助成事業(科研費)にも申請することが可能な研究機関ですが、学生は在籍していません。大学には非常勤講師として出講し、授業を担当しています。

また、大きな美術館や博物館とも異なります。通常、美術館は大きな箱を持っており、作品を収集します。しかし、KCIは作品収集自体は行っていますが、大きな展示施設を持っていません。そこで5年に1度、外部の美術館の展示施設にて、大規模な展覧会を開催するというかたちをとっています。今回の「ドレス・コード?」展はその大規模展にあたります。

今回の展覧会はKCIが新体制となって初めての展覧会でした。そうしたなか企画を担当したのですが、自分のなかで何をしたら良いのか、どんなコンセプトだったら意義のある展覧会になるのかということを一番に考えました。

最近のファッションの展覧会をみてみると、年に1度メトロポリタン美術館で開催され大きな話題になるMETガラや、パリ装飾美術館やヴィクトリア&アルバート博物館で開催された「Christian Dior, Couturier du Réve」展(2017年)といった大きな会場で開催される展覧会はエンタメ性がとても高く、巨額の資金が投入されることでスペクタクルな空間が作られている。一方、最近面白かった展覧会としては、日本では「半・分解」展(2018年)が挙げられると思います。ただ、あのような展覧会を1000平米規模の大きな会場で埋めるというのはなかなか難しい。今回の「ドレス・コード?」展はこうした現在の二つのファッション展の方向とは異なる、コンセプチュアルな展覧会です。

本展覧会では、まず私たち「着る人」にスポットを当てています。ファッションとはそもそも服を着る人間である私たちによって成り立っています。しかし、私たちはたんに服を着るだけではなく、他者から自己の服装を視られるものであり、また自己も他者の服装を視るという状況にあります。つまり、ファッションとは視る/視られるという関係性、相互行為によって生じるものだということです。このように考えたのは、私が社会学を専攻しているからということもありますが、ちょうど社会学者のゲオルク・ジンメルが『社会学の根本問題』という著作のなかでつぎのように述べています。

社会概念を最も広く解すれば、諸個人間の心的相互作用を意味する。もっとも、二人の人間がチラッと顔を見合わせたり、切符売場で押し合ったりしても、まだ二人が社会を作っているとは言えないだろうが、しかし、こういう限界現象が右の規定に簡単に当て嵌まらないからといって、それで右の規定に戸惑う必要はない。Simmel, G., 1917, Grundfragen der Soziologie: Individuum und Gesellschaft, Walter de Gruyter.(=1979、清水幾太郎訳『社会学の根本問題』岩波文庫、p. 20)

これは少し晦渋な文章ですが、シンプルに言えば、ジンメルは社会概念を考えたときに諸個人間の相互作用、相互行為によって成り立つ現象であると考えているわけです。基本的な社会学の授業を受けると、社会という概念をめぐって、デュルケームが個人を超越した集合現象であると考え、ウェーバーは個人の行為であると考え、そして、その中間にジンメルが相互行為であると考えた、という感じで習うと思います。

ファッションというのもまた然りで、自己と他者の相互行為、交差する視線によって成り立つものであると思います。これが大きなコンセプトです。では、そこからファッションを取り巻く現代社会においてどのような問題が、あるいはいかなる現象が生じているのか。そのことについて考えてみると、つぎの三つの理念型に区分することができるのではないか。それがステレオタイプ、脱ステレオタイプ、原ステレオタイプです。また後でお話しするように、この三つは最終的に円環するかたちをなしています。

展覧会では13のコードになっていますが、このキーワードが展覧会のコンセプトなので、すべては三つのいずれかに該当します。本日はこのステレオタイプ、脱ステレオタイプ、原ステレオタイプという理念型について、出展作品を交えながら説明し、企画者がどのようなことを考えていたのか、ということをお話できればと思います。

   

2. ステレオタイプ――「型」の(不)自由

まずはステレオタイプです。ステレオタイプとは紋切型、ある種の型ということですが、これに関連して社会学者のアーヴィング・ゴフマンが『行為と演技』において、つぎのように述べています。

ある行為主体が数人の人の居合わすところへ登場すると、通常彼らは新来者について情報を得ようとするか、あるいは彼について彼らがすでに所有している情報を活用しようとする。彼らが関心を抱くことは、このものの大よその社会-経済的地位であり、彼の自己像であり、彼らに対する態度であり、彼の能力であり、彼が信頼できるかいなかというようなことである。Goffman, E., 1959, The Presentation of Self in Everyday Life, Doubleday & Company, Inc.(=1974、石黒毅訳『行為と演技――日常生活における自己呈示』誠信書房、p. 1)

私たちは誰かに会ったとき、「この人ってどういう人なのかな」ということを、その人の姿形や仕草、状況などによって判断したり、またこれまでの経験を活用して、その人の人柄を把握しようとする。それは「人は見た目で判断してはいけない」という言葉に端的に表れています。つまり、この倫理的な言葉が発せられるのは、やはり私たちがすでに人を見た目で判断しているからに他ならないということです。

ファッションは、私たちの社会的属性を示す記号です。とくにそのわかりやすい例が、スーツや学生服といったユニフォームです。ユニフォームには型が存在している。その型があるからこそ、逸脱したいという欲望が生まれる。学生服だったらボタンを外したり、あるいは腰パンにしたり、女性の場合だとスカートを短くしたりといった逸脱行為です。

では、ユニフォームがなくなれば人は自由になれるのか。この間、ある銀行がスーツでの出勤をなくして自由にするというニュースがありました。しかし実施してみると、意外にどのような格好で出社したらいいのかと、逆に困ってしまう人も出てくると思います。

自由であることの不自由。その典型が学生服で、学校でも一時期、私服化の流れがありました。では、私服登校OKにしてみんな自由になったかというとそうでもなく、結局「なんちゃって制服」を買って、制服っぽい格好で登校している。つまり、私たちは型なしでは生きられない。やはり、ある程度の型がないと生きづらいという状況もまた確かだと思います。

展覧会では多くのスーツと、学園ものの映画ポスターを展示しています。スーツというのは19世紀中頃のイギリス上流階級のなかで成立していくものですが、型があることで、さまざまなバリエーションや流行が生まれていく。ズートスーツは1940年代に主に黒人たちが着ていたスーツで、この作品は京都でしか見られないので、ぜひ直截みてもらいたいです。80年代だとYohji Yamamotoのゆったりとしたスーツ。そして、それを一気に変えたと言われるのが、エディ・スリマンのDIOR HOMMEです。カール・ラガーフェルドが彼のスーツを着るために、大幅なダイエットをしたとも言われていますね。最近だとThom Browneのロールアップしたスーツが流行っています。

その他にカラードスーツがあります。私たちはこうしたカラードスーツを纏った人に街中で遭遇すると、「ちょっと怖そうだな、近づくのは止めたいな」など、やはりどこか先入観をもって相対すると思います。一方、学園もののポスターをみて思うのは、まず詰襟とセーラー服からブレザーに変化しているということです。そして、昔は『嗚呼!! 花の応援団』(1976)や『ビー・バップ・ハイスクール』(1985)のような不良系であるのに対して、今は『アオハライド』(2014)のような青春キラキラ系が多くなっているのが面白いですね。

・「ドレス・コード?―着る人たちのゲーム」展(京都国立近代美術館会場風景)🄫京都服飾文化研究財団

   
つぎはシャネルスーツです。シャネルスーツももはやひとつの型だといえます。一番左に映っている黒の作品が、1920年代にシャネル自身が作ったいわゆるアーキタイプ、そしてここには写っていませんが、戦後に発表されたピンクの二つの作品をプロトタイプとすると、ラガーフェルドがCHANELというブランドのなかで自己言及し、また山本耀司によってオマージュを込め他者言及され、ステレオタイプ化していきます。

・「ドレス・コード?―着る人たちのゲーム」展(京都国立近代美術館会場風景)🄫京都服飾文化研究財団 福永一夫 撮影

   
そして、後程お話ししますが、最近ではデムナ・ヴァザリアのVETEMENTSが「MISS N°5」という、いわゆるシャネルおばさんの格好をコレクションで発表しているわけです。もちろん厳密に考えると、ここにはデザインとそれを着る人格という二つの位相が含まれていますが、このようにループする、参照することで型(=ステレオタイプ)が生まれている。

つまり、型というのはユニフォームだけではない。普段の服装についても当てはまるわけです。私たちは他者の服装をみて、その人の性格や趣味などをある程度類型化して判断し、楽しんでいる。このことを最も明確に示しているのが、ロバートの秋山竜次さんの「クリエイターズ・ファイル」です。たとえば、このなかに登場するYOKO FUCHIGAMIをみると、「ああこういうデザイナーの人、実際にいそうだな」という感じで、みんなが共有しているステレオタイプを面白く表現しているわけです。

こうしたステレオタイプはロバートの秋山さんやシンディ・シャーマンだけではなく、まさに先程挙げたVETEMENTSが2017年秋冬コレクションで発表しているわけです。彼が行っていることはいつも挑戦的で、とくにこのコレクションはとても面白いです。

コレクションでは出てくるモデルの人たち全員がラベリングされていて、そのような格好の服を着ている。milanesa(ミラノ風のおばちゃん)、parisienne(パリっ子)、tourist(観光客)からsecretary(秘書)、nerd(オタク)、pensioner(年金受給者)など。この動画はVETEMENTSからお借りすることができたので、是非一度みなさんもご覧いただければと思います。

動画:VETEMENTS FW17-18

ここで重要なことは、自己は他者の服装をみてある型にはめてしまう、何らかのステレオタイプな見方をしてしまうということです。ということは、同時に、他者もまた私の服装をみて、ある型にはめているということです。私たちは人間関係のなかで、ファッションをはじめとして何らかのステレオタイプな視線をもっている。

このことは決して悪い意味だけではありません。ステレオタイプなイメージがあることで、私たちは服装を通じて演技することができるという良い面もあるわけです。こういう改まった場所だから、他人にこういう風に思われたいから、といったさまざまな理由でときに私たちは服を着ています。だから、話してみると、「あれ、意外にこういう人だったんだ」ということもあるわけです。このように、本展ではファッションの視る/視られるという関係性のなかで、そのひとつにステレオタイプというのが重要なテーマになっています。

あと、すでにご覧になった方はわかると思うのですが、今回、藤田貴大さんが主宰する劇団マームとジプシーともコラボレーションしています。ファッションの展覧会の場合、通常マネキンに服を着せます。しかしそれだけだと、そもそも絵画や彫刻などの芸術作品とも異なるという特性もありますが、たんにテキスタイルをみせることになって、「こういう服を着る人ってこういう人なんじゃないか」という想像が非常にしにくい。

そこでKCIの所蔵作品を使って、「この服装をだったら、こういう性格の人なんじゃないか」ということが鑑賞者にも伝わるような、ステレオタイプをコンセプトにした作品を作ってもらえないかという依頼をしました。結果として、この写真にあるインスタレーションが出来上がりました。そこではAからZまでの26人のポートレート、彼らが着ていそうな服、また彼らが愛用している小物、そして彼らが喋りそうな言葉や会話が展示されており、それらを結び合わせていくことでそれぞれの性格やキャラクターが浮かび上がってきます。

・「ドレス・コード?―着る人たちのゲーム」展(京都国立近代美術館会場風景)🄫京都服飾文化研究財団 福永一夫 撮影

   

3. 脱ステレオタイプ――選択の(不)自由

つぎのテーマは脱ステレオタイプです。これは型の自由/不自由ではなく、服を選ぶことの自由/不自由ということですが、現代社会においては、ある種、服の持っている意味や価値が失われていく過程にあるといえます。たとえば、トレンチコートのトレンチとは塹壕という意味で、もともとは軍服です。そして、『カサブランカ』(1942)のようにハードボイルドな男性が着るというステレオタイプもありましたが、beautiful peopleの作品のように今ではほとんどそのようなイメージはない。つまり、一つのアイテムとなることでさまざまなデザインが生まれるわけです。

ジーンズも然り。ジーンズは19世紀のアメリカ開拓期の炭鉱夫が着ていたもので、その後、一時期は若者の反抗の象徴のようになりました。けれども、もはや現在そのようなイメージはありません。また、ないがゆえに、さまざまなデザインの作品が作られています。迷彩、ライダース、タータンチェックもそうですね。

一方、ピエド・モンドリアンの《コンポジション》と呼ばれる作品がありますが、これをイヴ・サンローランがモンドリアンルックとして1965年秋冬に発表したのは有名です。また、同時期に巷ではモンドリアン風の靴も作られている。最近では、私たちはUNIQLOに行けば1000円前後でこうしたアートなTシャツを簡単に手にすることができます。そして、さらにこうした文脈でローズマリー・トロッケルの《I wonder》(2016)を並べて置いてしまうと、なんとなくモンドリアン風にみえてしまう。

・19世紀写真/映画『理由なき反抗』1955年/ジュンヤ・ワタナベ・コムデギャルソン 2002年春夏/ディオール(ジョン・ガリアーノ)2001年/ピエト・モンドリアン《コンポジション No. 1》1929年/ハイ・ブロウズ1960年代後半/イヴ・サンローラン1965年秋冬/ローズマリー・トロッケル《I wonder》2016年

   
また、有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》(1503-1519)があり、マルセル・デュシャンの《L.H.O.O.Q.》(1919)のモナリザがある。もちろん、ルーブル美術館に行けばモナリザのお土産品がたくさん売られている。そして、一見ダヴィンチのモナリザとLouis Vuittonのコラボレーションかなと思わせて、アプロプリエーションアートとして有名なジェフ・クーンズとのコラボ作品もあります。

ロゴもそうですね。バーバラ・クルーガーの作品のタイポグラフィーがストリートファッションのSupremeと同じなのは有名ですし、SupremeとLouis Vuittonのコラボは大きな話題にもなりました。このように、アートやロゴの価値というのは非常にフラットになっていて、さらに私たちは〇〇っぽい、〇〇風あるいは〇〇系といったかたちでモノを認識しているといえます。

こうした状況のなかで、MOSCHINOのジェレミー・スコットが2017年春夏コレクションに、紙の着せ替え人形のような作品を発表しています。これは彼自身も述べていることですが、本来ファッションというのは触覚的なもので、本当は手触りを感じたりするものですが、もはや現在のSNS時代では視覚的なもので簡単に判断してしまう。つまり、私たちはスマホやインスタのスクリーンという、二次元でしかモノをみていないということです。だからもはや着せ替え人形なのだという、これはとても批評的な素晴らしい作品です。手仕事の大切さとか、マテリアルの良さとか安易に謳わないところが良いですね。ここには意味や価値がなくなっていくことと、現在のメディア環境における平面的な視覚という二重のフラット化の要素があるように思います。

・「ドレス・コード?―着る人たちのゲーム」展(京都国立近代美術館会場風景)🄫京都服飾文化研究財団 福永一夫 撮影

   
さて、こうした状況のなかで、私たちは数多の服から自由に選ぶことができる。脱ステレオタイプ化されたファッションを楽しんで、それぞれ個性的な表現ができているといえるかもしれません。しかし、本当にそうなのか。街中に出たとき、私たちは本当に、みんな個性的なファッションをしているのか。

このように問いかけて、ハンス・エイケルブームの《Photo Notes》をみる。すると、そこには同じような格好をした大勢の人びとの姿が並んでいる。この作品にはそれぞれ場所と日付と撮影した時間が記されています。たとえばアムステルダムで2016年3月26日の1時から3時の間に、これだけ同じファッションの人がいたというものです。彼はこうした路上観察を30年近く続けています。

・ハンス・エイケルブーム《Photo Notes》 1992–2017年 作家蔵

   
少し脱線しますが、これをみると確かに画一的であるといえるかもしれませんが、このようなまとまりでみると他にも楽しめることがあって、たとえば90年代のジーンズと2000年代のジーンズを比較してみると、やはり特徴が異なります。また、同じスーツでもニューヨークで撮影したものと、東京で撮影したものがある。それを比べてみると、東京のスーツ姿の人はみんなマスクをしています。こうした同じようなアイテムでも、年代や地域による違いを感じられるところが非常に面白いですね。

この作品についてデイビッド・キャリアというアメリカの批評家が、つぎのような言葉を寄せています。

ザンダーの従来の文化においては、社会的役割が人の服装を決定した。農家は他の農家と同じような格好を工場労働者は他の工場労働者と同じ格好をし、特権階級の男女には特有のファッションがあった。しかし、今日では、ほとんどの人が自由に選ぶことができる。現代の市井において、人の服装というのは、人が他人からどのように見られているのかを決定づける。したがって、自身に適した表現方法を見つけることが容易ではないことから、服を選ぶという行為には不安が伴う。Carrier, D., 2014, Finding Your Way in Society: People of the Twenty-First Century. Eijkelboom, H., People of the Twenty-First Century, Phaidon Press Limited.

服を選ぶことに伴う不安の一つに、服がかぶるという問題があります。服がかぶることを気にするのはとくに現代の若者たちのなかで見受けられて、ファッションは自己表現というより他者とかぶらないことを重視しているという、工藤雅人さんの調査結果などがあります(工藤雅人、2017「『差別化という悪夢』から目ざめることはできるか?」北田暁大・解体研編『社会にとって趣味とは何か――文化社会学の方法規準』河出書房新社)。しかし、かぶるという現象は決してネガティブなことばかりではない。みんなと同じような服を手にすることで安心を得られるということもある。たとえば、服が浮いているという経験をしたときに、同じような格好をしていれば安心だなと思うこともあります。普通であるための〈私〉ですね。

また、現在の世界情勢だと移民の問題があります。移民の人たちが中東などからイギリスやヨーロッパに移り住むとき、彼らはジーンズを手にするということを記した研究があります(Daniel Miller and Sophie Woodward, 2012, Blue Jeans: The Art of the Ordinary, University of California Press.)。なぜなら、自分たちが異国の格好をしているからで、ジーンズをはくことで移民であるというラベリングから逃れることができる。つまり、ファッションを通じて都市空間に溶け込むことができるわけです。これはとても興味深い現象だと思いました。

だから、服を選ぶことには他者とかぶるという不安があるけれども、同時に、その都市のなかで生きていくことができるという安心もある。そういう両義的な問題ですね。このように、ステレオタイプには型による自由/不自由があり、脱ステレオタイプには選択による自由/不自由があります。

   

4. 原ステレオタイプ――ファッションの可能性

ステレオタイプのファッション、脱ステレオタイプのファッションときて、その先にどのような新しいファッションが生まれるのか。そのように考えたとき、もちろん、単純に新しいファッションはもうありませんといえるかもしれません。現代社会において、とくに日本では、ファッション産業は傾斜産業と言われることもありますし、最近ではデザインについても「今年は70年代風です」とか、この間だと「80年代風のスタイルが流行っています」などと言われ、決して新しいデザインが生まれているとは安易にはいえない状況です。

しかし、何か新しいもの、あるいは新しいと感じさせてくれるものが生まれることは潜在的な可能性として常にあり得るわけです。とくに、それはたんにさまざまな要素をミックスすることから生まれるというわけではなく、何か一言では表現し難い、独特な世界観を持つファッションにこそ可能性があると思います。

まず、最近ではGUCCIのアレッサンドロ・ミケーレですね。彼の作品は「これは一体何だろう」と感じさせてくれるもので、これは「ドレス・コード?」展の英語版チラシに使用した作品ですが、カトリックの司祭が纏うストールにニューヨークヤンキースの刺繍があり、ジャンパーの背中側には70年代の漫画『ビバ!バレーボール』がプリントされていて、スカートはキラキラのシークイン刺繍。さらにスパッツをはいて、靴はボウリングシューズというスタイル。彼が行っているコレクションは、もちろん毎回少しずつ異なりますが、やはり世界観は統一されている。この世界観の統一が共感を呼んで、結果としても、GUCCIの大きな躍進につながっているのではないかと私は思います。

動画:Gucci | Fall Winter 2018/2019 Full Fashion Show | Exclusive

   
ただ、このような表現し難い独特の世界観を提示しているファッションというのは、決してハイファッションのみが行っているわけではない。普通の市井の人びと、ストリートを歩く私たちのなかにも面白いファッションを作り出している人がいる。そこにはハイファッションもサブカルチャーも関係ないわけです。

今回そのために都築響一さんに協力をお願いしました。たとえば、異色肌。これは一瞬「エッ?」とびっくりしてしまうかもしれませんが、非常に面白く、写真も素敵です。後程触れますが、何より彼女たちが楽しんでやっているところが良いですね。つぎに、『鶴と亀』という長野の奥信濃に住む、おじいさんおばあさんをスタイリッシュに撮っているフリーペーパーがあるのですが、これもかっこいいですね。一周回ってこの格好が良くみえるというか、こうした撮り方や試み自体がとても素敵だと感じました。

・グッチ アレッサンドロ・ ミケーレ 2018秋冬/都築響一(編)インスタレーション 2019年 新作

   
このように、かっこいいというのは、何をもってかっこいいかは明確に言えませんが、独特の世界観によって出てくるのではないか。それはハイもローも関係ない。したがって、これらは会場でも同じ空間に展示しています。私は今回こうしたファッションを原ステレオタイプと名付けました。なぜ原ステレオタイプかというと、やがてこうしたファッションもおそらくネタ化されていくだろうと、つまりステレオタイプなものへとなっていく。事実、GUCCIのファッションも徐々にステレオタイプになりつつあるといえます。けれども、こうした未来にステレオタイプとなりうるような、原ステレオタイプなファッションにこそ可能性があると思います。

・「ドレス・コード?―着る人たちのゲーム」展(京都国立近代美術館会場風景)🄫京都服飾文化研究財団 福永一夫 撮影

   
では最後に、原ステレオタイプとなり得るようなファッションを、本展の大きなテーマであった視る/視られるという関係性から考えるとどうなるか。このことについて異色肌のmiyakoさんがとても重要なことを話していると思います。彼女はつぎのように言います。

“誰かのため”“何かのため”に異色肌をしているのではなく、純粋に自分が好きな格好をしているだけです。(https://www.wwdjapan.com/665255(最終閲覧日2019年7月7日))

これは決して彼女たちがたんに他者の視線を無視したり、社会の規範から全く超越しているということを意味しているのではない。むしろ、私たちのファッションをめぐる、視る/視られるという関係性を踏まえた上で、それでもなおファッションを楽しむ態度であるといえるのではないか。つまり、誰もが経験していることだと思いますが、ファッションを単純に楽しむだけということはなかなかできず、ある時、他者にどうみられているかということを気にして、ファッションに悩むときというのがあると思うんです。けれども、そうした視線を前提としたなかで、結局自分自身が楽しまないと、やはりファッションというのは面白くならないわけですね。決して奇抜な格好をすれば良いのではない。一周回ってファッションを楽しむということ。それが重要なことだと思います。

   

5. おわりに――円環するステレオタイプ

長くなってしまい申し訳ありませんが、最後に今までのことをまとめますと、ファッションというのは視る/視られるという他者との相互行為のなかで生じる現象である。つまり、ファッションとはこの世に生まれたときから否応なしに参加を強いられるゲームなのだということです。たとえば、「ファッションは自分には関係ない、何でもいいです」とか、「自分はファッションから降りましたから」といっても、他人から「その服かっこいいですね」とか、「えっ、その服ダサくない?」とか言われると、ファッションという空間に戻されてしまうわけです。だから、他者が存在する限りにおいて、ファッションという現象はあり続けるわけです。

こうした、視る/視られるという自己と他者の関係のなかで、ステレオタイプという型の自由/不自由がある。また、脱ステレオタイプという現象のなかで、選択することの自由/不自由がある。そして、一周回ってファッションを楽しむことで、原ステレオタイプが生まれる。ただし、その原ステレオタイプも、やがてはステレオタイプのネタとして消費されていく。「ステレオタイプ→脱ステレオタイプ→原ステレオタイプ(→ステレオタイプ→…)」という循環構造があるのではないか。

以上のことを、私は今回の展覧会、「ドレス・コード?――着る人たちのゲーム」展のコンセプトとして考えました。まだご覧になっていない方、もう一度ご覧いただける方には、今回お話しさせていただいたことを少し頭の隅に入れて、考えていただけるとうれしいです。また、この詳細については、カタログ内の私の論文をご一読いただければ幸甚です。

今回、私自身初めての展覧会だったわけですが、展覧会の企画はもちろん、カタログやチラシのデザイン、展示のデザイン、マネキンの選定、写真撮影そして会場での配置など、色々と貴重な経験ができ、また本当にさまざまな方に助けられて実現することができました。こうしたことについても、何か機会があればお話しすることができればと思います。最後になりますが、さまざまなファッション展をはじめ、数多くの展覧会が開催されていますが、「ドレス・コード?」展自体が誰かにとっての原ステレオタイプとなってくれれば本当にうれしいです。以上になります。本日はありがとうございました。


Think of Fashion® 062
「ドレス・コード?」展を読み解くー「ステレオタイプ」を中心にー

講師:小形道正(京都服飾文化研究財団アシスタント・キュレーター)

・開催日時:2019年10月5日(土)17時30分開催
・会場:スパイラルルーム(スパイラル9F)
・主催:FashionStudies®
・協力:京都服飾文化研究財団
・会場協力:スパイラルスコレー
・企画:篠崎友亮(FashionStudies®

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小形道正(おがた みちまさ)
2015年より 京都服飾文化研究財団(KCI)に勤務。アシスタント・キュレーター。『Fashion Talks…』の編集担当。東京大学大学院博士後期課程単位取得。

   

この講義の動画はこちらからご覧になれます。

   
Think of Fashion® 062 前半「ドレス・コード?」展を読み解くー「ステレオタイプ」を中心にー

   
Think of Fashion® 062 後半「ドレス・コード?」展を読み解くー「ステレオタイプ」を中心にー

   

   

ドレス・コード?― 着る人たちのゲーム
Dress Code: Are You Playing Fashion?

この展覧会は、従来の服飾史にならった展示やデザイナーの創造性を謳った展示とは異なり、私たち「着る人」の立場から考えられています。また、そこではファッションがたんに「着る」だけではなく、「視る/視られる」といった自己と他者の関係性(ゲーム)にあるという根源的かつ現代的な問題がテーマとなっています。

期間 2020年7月4日[土] ― 8月30日[日] 

会場 東京オペラシティ アートギャラリー https://www.operacity.jp/ag/exh232/

   

・Comme des Garçons 2018年春夏 京都服飾文化研究財団所蔵 撮影:畠山崇