column 018

西本裕亮(会社員)

今振り返ると、この4年間というのは日本での新しいファッション批評の黎明期と後に呼ばれるのではないかと思われる。それは、この分野を目指す人なら須く通るであろう、鷲田清一による身体論を基盤とした方法論の更新の試みが随所でなされようとした時期でもあった。1990年代に登場した鷲田流のスタイルは、今日に至るまで未だに日本国内におけるファッション批評の土台(というか、入門書)のような役割を良くも悪くも果たしている。(ご本人としても喜ばしいことなのか悲しいことなのか、どちらなのであろう?)

もちろん、鷲田氏以前にも、京都服飾財団の設立4年後から出版され始めた『ドレスタディ(DRESSTUDY)』(1982-)がこれまで日本国内唯一のファッション批評誌として刊行され続けてきたが、「人文諸学科の草刈場」と揶揄された1960年代の美術史の風景はこのような有り様だったのかと想起させるような内容であった。

その後、2000年代に入ってからも成実弘至氏らを筆頭にいくつかの翻訳本、理論書が出版され続けたが、転換期となったのは間違いなく、「感じる服 考える服 東京ファッションの現在形」展(2011)と「Future Beauty 日本ファッションの未来性」展(2012)の二大展覧会であったはずだ。

この両展覧会では、これまで日本ファッション界の宝とされてきたCOMME des GARÇONS、YOHJI YAMAMOTO、ISSEY MIYAKEの御三家に留まらず、次世代を担うUNDERCOVERやJUNYA WATANABEなどパリに発表の場を置くデザイナーから、ANREALAGE、matohu、writtenafterwardsなど当時東京でショーを開催していた新進気鋭のデザイナーまでを網羅すると同時に、アカデミックな言説をそこへ加える画期的な試みがなされていた。

さらに、この潮流に対応するかのように『ファッションは語りはじめた 現代日本のファッション批評』(2011)、『拡張するファッション』(2011)、『相対性コムデギャルソン論』(2012)といった新しい世代によるアンソロジーの出版や、慶応大学の水野大二郎と京都精華大学の蘆田裕史らによって批評誌『vanitas(元fashionista)』(2011-)が創刊され、現在、日本のファッション批評は新しい局面を迎えようとしているようにも思われる。

しかし、なぜ他の表現領域と比較してファッションという分野においてのみ、批評行為がこれまで遅れをとる事態が起きてしまったのであろうか?この疑問に対して、文化史をかじっていた僕からすれば、バーバラ・M・スタフォードによる近代史の議論が一つ解決の糸口となり得るのではないかとも考えている。

『ボディ・クリティシズム』(1991)、『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』(1994)、『グッド・ルッキング』(1996)によって議論された「イメージ文化」対「活字文化」の構図  つまりは、色感溢れ、変化し止まぬイメージは人の感覚を欺く(artful)が故に低級なものであり、それに対して半永久に存続する文字は深みを持つために高尚であるとする人文学の偏見  は、そっくりそのまま半年という束の間の寿命しか持たないファッションという表現形式とその作品が長いスパンで消費されるその他表現形式の対比に置き換えることが可能なのでは?と。煽情的にその形態を変化し続けるファッションは、19世紀以降の近代的な資本主義的構造よって作り出された、感情的な女性の愚かな関心ごとに過ぎないという認識がもたれるようになったのだ。

しかし、他方でもすでに紹介されているものも含むので、詳細はそちらに譲るとしても、海外においてはすでにこうした長年の陳腐化した偏見をいとも容易く乗り越えるような研究がなされ始めている。例えばウルリッヒ・リーマン著『Tigersprung』(2000)は、ボードレール、マラルメ、ゲオルク・ジンメルからヴォルター・ベンヤミン、アンドレ・ブルトンに至るまでの近代を生きた思想家達の分析を基にポストモダニズムを超えた引用形式であるファッションの性質を文化史的手法によって明らかにしている。

1990年代ファッションの流行を世紀末論の視点から再定義するキャロライン・エヴァンスの『Fashion at the edge』(2003)、現代における整形、SNS上でのセルフィー(自画像撮影)までもファッションの範疇で語る画期的な研究書であるステラ・ブラジーの『Fashion Cultures Revisited』(2013)もまた、こうした閉塞的なファッション研究の突破口を提示している。

こうした著作を日本語で読める日が一日でも早く訪れることが、僕を含めた市井の読者の頼みではあるかもしれないが、それにはまだ時間がかかるというのであれば、今や絶版となっているマーク・アンダーソン『カフカの衣装』(1992=1997)が再版されるだけでも、願ったり叶ったりだ。一人の作家の作品に描かれる衣服が表象する時代の精神を巧みに浮き彫りにする著者の鋭敏な嗅覚は、未だに色褪せることなく示唆に富んだものであるし、清水高志氏によるミシェル・セール研究を知っている今であれば、19~20世紀初頭の消費社会における循環の意味やノワーズ(noise)と美の関係など新たな発見があるはずだ。

あるいは、無い物ねだりばかりでは恐縮なので、一冊現在でも入手可能な書籍を紹介するならば、ジョン・ハーヴェイの『黒の文化史』(2014)を挙げずにはいられない。ファッションもさることながら、芸術、光学、人種、宗教、政治、産業における「黒」の意味を網羅的に紡ぎだす本作は必読すべき一冊の一つに間違えない。

先程から、「文化史(Kulturgeschichte)」という言葉を連発しているが、結局は形骸化しつつもある「学際(interdisciplinary)」の問題なのだ。それは、「イメージ文化」対「活字文化」などと優劣をつけることなく、全ての表現領域を水平に並べることによって浮かび上がる「時代精神」とでも言えるようなものを抽出する試みでもある。

「動物化」と言っても差支えないが、ますます映像的になる現代に際して、全ての価値が相対化されるポストモダンにおけるデータベース的な引用/カット・アンド・ペーストを語るポップカルチャー批評を語る前に、はるか以前から組合せ術/アルス・コンビナトリア的な表現形式を実践するファッションは「時代を映し出す鏡」という性質以上に、我々を取り巻くすべてのコンテンツの作り方/ファッションを再提示する試金石の一つなのではなかろうか。

西本裕亮(会社員)*
2015/6

**学生時代、学魔高山宏の下で学ぶ。現在は都市計画やR&D部門との共同研究を行うON,Inc.にて勤務。