column 024

菊田琢也(文化社会学/ファッション研究)

アメリカの写真家であるソール・ライター(Saul Leiter, 1923-2013)は、写真史においてはカラー写真のパイオニアとして知られていますが、1957年から70年代にかけて少し変わったファッション写真を『ハーパース・バザー』などで発表していました。

僕が最初に出会ったライターの写真は、『ハーパース・バザー』1963年8月号の表紙で、まだ大学院生だった頃、いつもの大学の図書館で古雑誌のページをパラパラと繰っている時に出くわしました。
ライターのその写真は、青いコートに黒い鍔広帽を斜めに被ったモデルが、何かの隙間からこちらに視線を向けているもので(後で知ったのですが、それはDavid Jacobsという彫刻家の作品でした)、時空を超えて目が合ってしまったかのようなリアリティを感じ、不意にドキッとさせられたことを覚えています。

ライターの写真の多くは、カメラのレンズと被写体との間に「遮蔽物」が置かれます。なかでも、雨に濡れたガラス窓越しに撮影した街頭写真が有名です。それらは、街頭に広がる何気ない日常を切り取ったものとして評価されていますが、他方で、物陰から覗き見しているかのような窃視的な視線が、観る側にそわそわとした、それでいてわくわくとした感情を呼び起こします。あちらの人物がこちらの視線にいつ気付くかなといった仄かな期待と気まずさが入り混じったような感情です。

この窃視的な視線によって、ライターの写真は、被写体にカメラを向ける写真家の存在、そしてその写真を見つめる<私>という存在をはっきりと意識させる。しかし、被写体とカメラ、つまりは被写体と<私>の間は「遮蔽物」で遮断されている。あちら側の世界とこちら側の世界が分断されている。手を伸ばしても届かない世界が「遮蔽物」の向こうには広がっている。僕らはそれを遠くから眺めることしかできない。それは、もどかしくもロマンチックな距離だったりするのです。

しかし、ライターのファッション写真においては、被写体であるモデルがこちら側を見つめ返しているものが多い。カメラを向けられているという状況を、被写体が知っているからですね(だからこそ、ライターのファッション写真には、意図的にオフショットを狙ったようなものも存在します)。被写体の視線が、「遮蔽物」を突き抜けてこちらに迫ってくる。ただ眺めるしかなかったあちらの世界からの、こちらの世界への気付きです。こちらを見返す視線。その視線に、ついドキッとさせられてしまうのです。

当時の『ハーパース・バザー』は、アレクセイ・ブロドヴィッチからヘンリー・ウルフへとアート・ディレクターが交代した時期で、ブロドヴィッチの動的なレイアウトを引き継ぎながら、より斬新な誌面作りが試みられていきました。それと同時に、ファッション誌は、商業写真だからこそ可能な表現を追求していく実験的な場として機能していったのです。

しかし、その一方で、次第にアート・ディレクターやヘアメイク・アーティスト、スタイリストなどの意向が強く反映されるようになり、写真家が自由に撮影できなくなっていった経緯があります。商業写真の宿命とも言えますが、ファッション写真はそうした制約のなかで発展していった側面があります。もちろん、協業による制作が見事な化学反応を生んだ例も多々ありますが、ライターに関して言えば、不自由な制約のなかで撮ることに次第に嫌気がさし、商業写真から距離を取るようになっていったそうです。芸術表現と商業目的との間で揺れ動くメディアとしてのファッション写真。そうした特性について、ライターの写真をめぐって考えることができます。

ソール・ライターのドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』が12月から公開されています。翻訳を務めたのは柴田元幸さん。ぜひご観賞くださいませ。
それにしても、ライターの写真は、窓ガラスが曇る寒い季節がとても良く似合います。

「有名人を撮るよりも、雨に濡れた窓を撮るほうが、私には興味深いんだ」
(ソール・ライター)

菊田琢也(文化社会学/ファッション研究)
2015/12