column 021

星野太(美学/表象文化論)

わたしにとって、ファッションについて考えることは、自分や他人の「欲望」について考えることと切り離すことができない。もし「欲望」という言葉が強すぎるのであれば、(やや古い言葉で)「記号」という言葉を用いてもよい。というのも、ここでいう「欲望」とは、ある生理的な欲求には還元できない何らかの記号を追い求めることにほかならないからだ。そして、そのような記号を追い求める欲望は、言葉を用いて社会的な生を営むあらゆる人間に固有のものである。

なるほど、個々のブランドのショーや衣服には統一的なテーマがあり、それを纏う人々の側にも、多かれ少なかれ統制された美意識があることは確かだ。だが、それらの総体としての「ファッション」というジャンルが興味深いのは、そうした高次の主体性や美意識には還元できない奇妙な欲望が、その周囲を取り巻いていることだろう。少なくともわたしは、ファッションにおけるそのような欲望のあり方にこそ、強い関心を抱いている。

その理由はおそらく、過去に自分自身がそのような「症例」を経験しているからだろう。

やや唐突な話になるが、アディダスが2001年に販売していた「カントリー・スネーク」というスニーカーがある。あの有名な定番モデルの「アディダス・カントリー」に蛇柄のプリントが施されたものだ。この靴は2001年の一定期間にのみ販売され、現在に至るまで復刻はなされていない。

そして、わたしはこのスニーカーを現時点で5足所有している。3足はすでに履き潰したので、これまで合計8足を購入した計算になる。これらは、当時購入した最初の1足がもう履けない状態になった2008年頃に、得も言われぬ焦燥感に駆られて、数年をかけて買い集めたものだ。あまり大きな声では言えないが、今もなお、手頃な値段で購入できるデッドストックが見つかればすかさず買い集めている。これが果たして正常な行動なのかどうかは自分でもまるでわからないが、とにかく自分が死ぬまで履くために十分な数——少なく見積もっても10足ほどだろうか——を買い集めるまで、これからもわたしは「カントリー・スネーク」を買い求めることをやめないだろう。

この自分の欲望を、わたしは合理的に説明することができない。

ただ、その欲望の間接的な原因だけは、はっきりしているのだ。高校生の頃に読んでいた雑誌『FRUiTS』のある号に掲載された、一枚のスナップ写真がそれだ。ご存知のように『FRUiTS』は女性誌なのだが、その頃は男性のスナップも珍しくなかった。そのある号のある頁には、20代前半とおぼしき男性二人組が写っていて、そのひとりが「カントリー・スネーク」を履いていた。最初に同じスニーカーを買い求めたのもその写真を見たことがきっかけだったはずで、何の因果か、それから15年近く経った今も飽きずにそのスニーカーを買い求めている。

別に、そこに写っている男性が特別格好良いと思ったわけではないのだ。けれども、そんな一枚の写真をきっかけに、ひとりの人間があるスニーカーを生涯買い求めるということが起こってしまう。わたしにとってファッションとは、デザイナーや愛好家の強い美意識には還元できない、こうした暗く奇妙な欲望を作動させる装置にほかならない。その原因を「理解」することが必ずしも重要なわけではないのだが、ともかくそれに何らかの落としどころを与えるには、批評や学問という名の臨床が不可欠であることは確かだろう。

星野太(美学/表象文化論)
2015/8