2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックへの関心が高まる中、Fashion Studiesは、JOA(日本オリンピック・アカデミー)との共催で研究フォーラムを開催。安城寿子氏(服飾史家)と小嶋茂氏(JICA横浜移住資料館学芸担当)による二つの講演が行われた(*註1)。
ここでは、安城氏の講演「東京オリンピックのユニフォーム ―赤と白をめぐる『なぜ?』を考える―」について振り返る。
講演は二部構成で、まず、1964年東京五輪の選手団公式服装(以下、ユニフォームと言う)が誕生するまでの歴史を概観した後、後半では、このユニフォームをめぐって流布されてきた「石津謙介デザイン」という俗説について考察が加えられた。
赤いブレザーと白いスラックスの鮮やかなコントラスト。1964年東京五輪の入場行進の最後を飾ったこのユニフォームは、今なお多くの日本人の記憶に鮮烈な印象を残している(*註2)。「日の丸カラー」とだけ説明されることの多いこのユニフォームは誰がどのような思いを込めてデザインしたものだったのだろうか。
このユニフォームをデザインしたのは望月靖之。神田で「日照堂」という洋服店を営んでいた人物である。「日照堂」は日本大学の制服の指定商で、日大と言えば、水泳選手の古橋廣之進をはじめ、著名な運動選手を多く輩出していた大学であるから、その辺りから、望月と日本体育協会の結び付きが生まれたようだ(*註3)。
1952年、望月は、日本体育協会から、ヘルシンキ大会(日本が戦後初参加を果たしたオリンピックである)の入場行進で日本選手団が身に着けるユニフォームの仕事を依頼された。この時、彼が手がけたのは紺色のブレザーにグレーのスラックスだったが、スポーツ文化に造詣が深いことで知られた秩父宮雍仁親王にそれを披露したところ、「もっと歴史を調べて日本の色をブレザーに表してみてはどうか」との示唆を賜ったという。こうして、望月は、「日本のナショナルカラーとはどんな色か」という問いに向き合うことになった。
望月に最初のインスピレーションを与えたのは「我がヒノモトの国は」という歌舞伎の台詞だった。望月は、ここから、「日本」と「太陽」の結び付きを思い、さらに、日本の国旗が日の丸であるということにも注目する。そして、赤と白の二色こそが日本選手団のユニフォームにふさわしいナショナルカラーであると考えるようになる。
しかし、こうして見出したナショナルカラーが選手団公式服装として採用されるまでの道のりは険しかった。
望月は、メルボルン大会(1956年)の選手団公式服装として赤いブレザーを提案したが、「男が赤を着るのはおかしい」などの理由でJOC(日本オリンピック委員会)はこれを却下。次のローマ大会(1960年)では、白いパイピングの施された赤のブレザーと赤いパイピングの施された白いブレザーという二つのデザインを提案したが、ここでも、望月の「本命」だった前者は却下された。1964年の東京大会でようやく望月の願いが身を結んだ背景としては、望月と大同毛織の研究によって、JOCの委員たちを納得させる「赤」の発色が可能になったということがあったようだ。こうして、実に8年越しの悲願が実を結んだのである。
以上が、1964年東京五輪の入場行進で日本選手団が身に着けていたユニフォームが誕生するまでの歴史の概要だが、このユニフォームをめぐっては、遅くとも1990年代頃までに、アイビールックで一世を風靡した「VAN」の石津謙介によるデザインであるとする誤った俗説が定着してしまっていたという。今なおそう信じて疑わない人は少なくないようだ。
確かに、石津謙介は、森英恵や芦田淳とともに1964年東京五輪のユニフォームの一部のデザインを手がけていた。しかし、それは、大会運営に携わる作業員と用務員のユニフォームであり(*註4)、選手団が開会式で身に着けていたユニフォームではない。後者の選考を管轄するのがJOCであるのに対し、前者の選考を管轄するのは東京オリンピック組織委員会であり、これらは全くの別物である。そうした事実関係の詳細が確認されないまま、ファッション雑誌や服飾史概説本を通じて誤った情報が拡散され、さらには、JOCの公式サイトやNHKの番組でもそのように報じられることで「公的な歴史」としての「お墨付き」が与えられてしまった。そうして一度広まった情報はツイッターやブログなどを通じて二次的、三次的に拡散され、望月と石津の知名度の差も手伝って、なかなか訂正することが難しい。
安城氏は、日本中世近世史を専門とする研究者の指摘を紹介しつつ、一次史料(当時の資料)の軽視によって史実として認定できない俗説が一般に広まるというのが歴史捏造の典型的パターンであるということに触れていたが、「みんなが言っているから」「色んな本に書いてあるから」というだけでそれを史実と信じ込むことの危険がよく分かった。
講演は、「過去の歴史をしっかり踏まえることは新しいデザインを生み出す上で非常に重要な条件の一つである」という言葉で締め括られた。2020年の東京大会に向けてしっかりフォローしていきたい問題である。
なお、「石津デザイン説」に関する詳細な検証は「SYNODOS」に掲載された安城氏の以下の論稿を参照のこと。
安城寿子「64年東京五輪『日の丸カラー』の選手団公式服装をめぐるもう一つの問題――石津謙介は監修者たりえたか」(「SYNODOS」2016年12月2日)
*文:小川悠仁
注1)小島氏の講演タイトルは「二つのオリンピック―スポーツがつないだ日系社会―」というもの。
注2)オリンピック開催国は入場行進の最後に登場するのが慣例となっている。
注3)当時、JOCは、日本体育協会の下部組織だった。
注4)スタッフ用ユニフォームには、他に、通訳・審判・警備・会場案内など様々な種類のものがあった。