ファッションは呪い ーファッションが与える痛みと歓びと癒し
ファッションは呪いであり、服を着ることにともなうのは、歓びではなく痛みである。
ちょっと大げさだが、ファッションや服を着ること、身だしなみに手を加えることについて考えるときに、この前提にたってみても良いのではないかと僕は思っている。
そもそも面倒だし、ちいさな期待を抱えて鏡の前にたったところで、いつもそこに映っているのはどう見ても似合わない服を着ている姿なのだから、こういう考えが浮かんでくるのも無理はないと思う。
もちろん、大丈夫かなという姿が映ることも、たまにはある。
でも、そんなのはほんとうに、ごく、ごく、まれ。
だから、服を着ることは、フラれるとわかっていながら、ちょっとだけ本気で想いを伝え続けるようなものであった。
やっぱりダメ。
やっぱりダメ。
毎日、服を着るたびに、この「やっぱり」が口から出て来る。だんだん慣れてはくるけれど、その頃にはささやかな期待も一緒にむくむくとわいてきてしまうから、忘れていたはずの「やっぱり」が、また、口から出てくることになる。
服を着ることは、やっぱり、痛い。
ほんのちょっとだけ盛ってはいるが、僕にとって服を着るとはだいたいこんな感じで、云うなれば、苦行だった。
だから、服を着て身をかざり、楽しそうにふるまっている人を見ると、羨ましさよりも不思議さを感じることが多かった。
何がそんなに楽しいの?
「ファッションは感覚、ことばでは説明できない」
この類の文言を聞くたびに、「ファッションはことばで説明できない」という短い説明で何かが伝わると無邪気に信じられるほど、自分はことばを信じていないと感じたし、自分の感覚(のダメさ?)が僕に痛みを与えているのならば、感覚なんて信じずに、なんでこんな服を着ているのか、伝わりきらないことばにすがってでも、痛みを和らげるための言い訳を口にし続けたいと思ってきた。
だから、ファッションについて、服を着ることについて、ことばを使って考え、文章を書くことは、僕にとって、ファッションという呪いの魔法を解くほぼ唯一の方法だった。
自分で書いていても、これこそが呪詛なのではないかと感じてしまうが、3年前に大学で社会学の立場からファッションについて教える機会を頂いてからは、この呪いのことばを、丸めたり、薄めたり、小出しにしたりしながら、恐る恐る学生に伝え、反応を見てきた。
すると、意外にも、少なくない学生が僕と同じく呪われているということに、コメントを読んでいるうちに気がついた。しかもそこには、恵まれた身体的特徴を有し、誰もが疑いもなく肯定的な評価を下すだろうと断言できるような服装の学生も含まれていた。
なぜ、あなたが?
ただただ意外で、ただただ不思議だった。
そんな話を、コメントを紹介しながら改めて講義で話すと、意外、不思議、というこれまた僕と同じような反応が学生から寄せられた。
毎年、その講義の後はいつも、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、痛みが和らぎ、楽な気分になる。
繰り返しなるが、ちょっとだけ盛っているので、必要以上に真に受けていただきたくはない。
とはいえ、多くの人が苦痛と感じてはいてもわざわざことばにしないこと、というものは少なくないはずだ。
そんな中で、ファッションは呪いであり、服を着ることは苦痛だという前提に立って、ファッションについて考え、その知見を共有することは、たとえほんの少しであったとしても、痛みを和らげることにつながると、僕は感じている。
「ファッションについて学ぶ」ことには、こういう側面も含まれていてほしいし、含まれているべきだと僕は考えている。
ファッションの「文化」的価値をいかに向上させるか。このような議論が必要ないというつもりはない。
でも、僕らは、ほぼ毎日、鏡の前で身だしなみを整えているし、毎日、服を着て日常を過ごしている。たとえ「文化」的価値について無関心であっても、誰一人として服を着るという日常から逃れることは出来ない。
だって、みんなが服を着ているのだから。
ファッションや服を着ることに関わるルールや価値や規範は、明示されることはなくとも、身の回りに存在していて、それが僕らの行為をある程度は方向づけている。大波に乗るようにこの力と戯れることが出来る人達もいるだろうが、多くは(ないとしても少なくない人たちは)僕と同じように波にのまれる恐怖を覚えながら、これといった対策も打てず、ただ海の前に立っているのではないだろうか。
海を怖がっている人に、いきなり波の乗り方を教えることはできない。
まずは、海になれ、必要以上に怖がることはないと気付かせることが大切である。そうすれば、波を楽しめるようになるかもしれない。
楽しめなくともいい。楽しんでいる人の感覚がわかるかもしれない、という感覚を体験できれば、それでいい。それに、もしそう思えたら、ちょっとだけだとしても、楽しめるようになれる気がする。
たとえ、そう思えなくとも、きっと楽にはなれる。
最初は、それで十分だと、僕は思う。
ファッションの輝きは、たぶん、なくならない。
きらきらについての文章も、たぶん、なくならない。
だから、ファッションが魔法であるという考えにそれほど異論はない。
でも、だからこそ、魔法が呪いとなってしまったときにそれを解く方法も一緒に知っておく必要があると、僕は思っている。
工藤雅人(社会学/メディア史/ファッション研究)
2015/3
本コラムに関わるものとして下記の論文がある。
1)工藤雅人,2014,「ファッションが『かぶらないようにする』ことの意味―2010年練馬区在住19~22歳男女における服を着ることと他者意識の関係性―」『ファッションビジネス学会論文誌』19号,1-13.
2)北田暁大・新藤雄介・工藤雅人・岡澤康浩・團康晃・寺地幹人・小川豊武,2013,「若者のサブカルチャー実践とコミュニケーション――2010年練馬区「若者文化とコミュニケーションについてのアンケート」調査」東京大学情報学環『東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究・調査研究編』29,105-53.(※「ファッション」に関する記述は118-22.)
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/wordpress/wp-content/uploads/pdf/29_3.pdf
3)工藤雅人,2013,「2.3ファッション」東京大学大学院情報学環北田暁大研究室「科学研究費補助金研究『サブカルチャー資本と若者の社交性についての計量社会学的研究』単純集計報告レポート(速報版)」「若者文化とコミュニケーションについてのアンケート」調査報告ページ,32-6.
https://sites.google.com/site/kaken21730402/home/distribution
2)と3)はリンク先から読むことが出来る。関心を持たれた方はご笑覧いただきたい。
私は、学部時代に鷲田清一さんの文章に魅了され、現在は、彼の議論を「身体論」としてではなく「服を着ることの日常性を捉えようとする試み」として読み直したうえで、きらびやかなファッションの下に隠れた地味で生々しい服を着る面倒くささや魅力を社会学という立場から明らかにしようと試みている。
鷲田さんはエッセイという文体を最大限に利用し、曖昧なものについてはあえて曖昧に書き、ぼんやりとしたものについてはあえてぼんやりと書くことで、「服を着ることの日常性」に迫ろうとしていた(と私は考えている)。
一方、現在の私は容易には言語化されない意識や行動をアンケートやインタビューによって浮かび上がらせるやり方に(も)可能性があると考えており、上記の論文や調査報告書はその試行錯誤の一つである。華やかさに欠ける地味な文体であることは自覚しているが、服を着ること(≠ファッション)という華やかならざる現象を捉えるには適しているように思う。