クール・ジャパンなどと言い出す前に、ファッション・デザインを教える国公立の大学を作ってもらいたい。プロフェッショナルな表現者や研究者を育てること無しに、経済振興などあるはずもない。もちろん、日本には世界に類が無いような秀逸な専門学校があって、ファッション教育に成果を上げてきたことは間違いない。どこの国に、文化服装学院のような、80年も続くファッション誌を出し続けるような出版局を備えた専門学校があるだろうか。
そんな文化服装学院に学生として3年も通ったおかげで、歴史が専門のはずの私も、大学で卒業制作の指導をすることができている。現在勤めている大学は、元々、デザインを教える大学ではないので、自分が習った専門学校とも、以前働いていた美術大学とも随分勝手が違う。そのために、専門学校と大学での教育の差異を考えつつ、これからのファッション教育の向かう道はどうあるべきなのか、悩むことも多い。
ファッション・デザインは、人間の姿かたちをデザインするという不思議なデザインの分野である。それは、ファッションが、「作る」のではなく「使う」ことによって、物と人間との関係性を構築する現象であることに由来している。人は、物を使うことを通して自分が誰であるかを語ろうとし、にもかかわらずうまく語ることが出来ないため、次々に語るための物を取り替えていく。それが、ファッションにおける物欲や流行を生みだしている。衣服という分野が特に重要になるのは、何よりも人間が所有している第一の物が、自分の身体だからであり、身体を使って自分を語ろうとする欲望が強いからであろう。それゆえにファッション・デザインは、人間の姿かたちをデザインすることにならざるを得ないのだ。
そういったことを考えると、ファッションを基点にして学ぶべきは、パリコレを目ざして芸術的表現に磨きをかけていくことだけではない、ということに気がつく。昨今よく言われる「実学」という観点からみても、やれることは多々ある。市場動向を読んで売れる商品を形にしていく技術を、衣服以外に応用していくことも重要である。あるいは、ファッション業界が磨いてきた接客技術や店舗インテリアのあり方を、他の分野に広げていくことも出来る。
しかし、そういった「実学」以上に、ファッションという考え方が、人間とは何かという人文学的問いに取り組む際の、しっかりした補助線になることを忘れてはならない。学生に衣服をデザインして作らせると、当人が抱いている人間観がストレートに出る。自分が創り出した人間の姿かたちとじっくり向かい合い、それを言語化することによって学べることは、全く数知れないようだ。大学でアカデミックにファッションを学ぶことの意味は、そこらへんにあるのではないかと思う。
井上雅人(コトバトフク/武庫川女子大学)
2015/2